物語の解説
各章で伝えたかったこと
前提
ご存知の方も多いと思いますが、ユング心理学で有名な書物に「魂の地図」というものがあります。いわゆる「map of the soul」ですね。ユングは、自分自身を心の探検家、地図の制作者と位置付けていました。それがこの書物のタイトルに現れているんだと思います。
私は、「一人一人の心の地図は、各々が、自分自身で描いていくもの」だと思っています。だからこそ、魂は自分の全ての記録であって、それは自分の世界そのものになるのではないかなと。そういう捉え方をしているので、それをそのまま同人誌のタイトルにしたし、作中にも「魂の記録」として登場させました。
魂の世界に取り込まれて記憶喪失に陥った理由としては、本文に書いた通りで心の一部である「嫌なこと」や「恐怖」を手放してしまったことが大きいです。
アズール先輩はそういうものを抱えて生きてきているので、記憶を失って、ついでに記憶がない状態まで年齢も戻っている設定になってます。
まさしく自分探しの旅を始める、そういうイメージで。
第一話:草原のペルソナ
人は、自分の心中をそのままそっくり外(表情)として出すことはできません。それは、社会との摩擦を最小限にして交流していく必要があるからです。
アズール先輩みたいなタイプは、もともといじめられていたことと、現在は成功者(監督生によってぐちゃぐちゃにされたとは言え、事業の成功は覆されないので間違いじゃないはず)であることを踏まえると、「社会的には成功しているが、成功したことによってペルソナが大きくなりすぎている」タイプである可能性があるなと考えました。支配人である彼は、過去のことがあって自分に自信が持てないために、そのペルソナを外せる場所がないのではないかと。いくらリーチ兄弟がいたところで、それを大っぴらに外せるのか?といえば、多分NOだと思うんですよね。「逃げたい」と「その場所に立っていたい」という相反する気持ちを抱えて、彼の記憶は失われた。それが自分を守るために「最も楽」だったから。…というのは私の誇大妄想線上の勝手な考えなのですが。
そういうわけで、自信を失ったアズール君は殻に閉じこもってしまいました。
第二話:海底の思い出
影とは、「本当の自分の姿」「自分自身について、認めがたい部分」「その人の人生において生きて来られなかった側面」を表すもの、と捉えられています。挙げた通り、影は「見たくない部分」を指すので、それが見える時は、現実にいる他者にそれが投影される場合が多いです。
見たくない部分を忘れていたアズール先輩は、それをそっくりそのまま持っていた海の魔女の遺した巻き貝を手にすることで、記憶を取り戻す…という流れになっています。
ただ、シャドウを忌み嫌うだけで終わるのではなく、それを受け入れる…自分の中の苦しい部分や見たくない部分を教えてもらって、シャドウを理解し、統合し、成長する…。「生きる」とは、そういうことなのかもしれません。
お話の中では、忘れていた過去を思い出すと同時、リーチ兄弟は消えてしまいましたが、その思い出は、確実に心に残っていた…。そんな形で、辛い気持ちと温かい気持ちを統合していくのもまた、生きる手立てなのかなと思います。
第三話:永遠の少年
ただ、この章については、失うことを恐れ「永遠の少年でいたいと思ってしまった」アズール先輩という観点で話を書いただけで、決して、アズール先輩が永遠の少年(心理状態が思春期止まり)って言ってるわけではないです。ご留意ください…!
どっちかっていうと、彼は、『「大人」の世界は「汚い」。だからそんな社会には適応できない。したくない。』…なんて成熟拒否をするどころか、早く一人前になって事業を成功させたい、そんな大人たちの世界に入って一つやらかしてやりたい、って感じの人ですもんね(笑)
ちなみに、ここでかごめかごめを出したのは完全に私の趣味です。昔話とか伝承とか、〜奇譚みたいなのが好きで…色々と調べたことがあったので、日本っぽいし入れてみようという、何も考えなしな始まりでした。もし勘ぐらせていたらすみません。
一応この本は「旅」もテーマの一つなので、一章はアフリカの草原、二章は北極の海の底(珊瑚の海)、三章は日本、四章はアラビア、五章はイギリスの古城を意識して書いていまして、そこに結びつけるための強引な印象付けでした。
第四話:影の街
エゴは「自我」表す言葉です。そして、それに似たセルフ(自己)という言葉もあります。この二つがまたわかりにくい!エゴは意識の中心、セルフは意識と無意識を通じての心の全体像と位置付けられていますが、後者は無意識配下にあるとされています。…って、なんのこっちゃですね!!
これを理解するには、エス(欲望)の概念を入れておく方がいいかもしれません。
すべての人間には「エス」と呼ばれる無意識層があると言われています。エスは、自分にとって気持ちの良いものを求め、嫌なものは避けたいという気持ちを指します。
さて、この章に出てくる影たちには感情がありません。ただ生きているモノたちを取り込んでしまいたい、その欲に忠実に生き、存在しているだけです。影の街においてはそれでいいのですが、私たち人間は成長の過程で社会に触れなければなりません。そこで、善意や倫理などの外圧と欲望であるエスを調整していくすべを身につけます。でなければ、自分の欲望を満たすためだけに生きる人で溢れかえって、こんな「普通」の生活ができなくなってしまいますから。
で、このエスと戦う心理的構造が「自我」と呼ばれるものです。意識して自我を保つことで周囲との均衡を守り、その中でも自分の選択に責任を持って生きていく。(監督生のエゴ=ロスみたいなところがあります。最初は扱えなかったものが、自分の思う通りに力を貸してくれるようになる的な)
そして最終的には無意識の中にあるもの(エスやセルフ)は外界へ向かって現れる機会を今か今かと待っているので、それを抑えるエゴをも掌握して、自分の思い通りに転がしていこうと…そんなお話でした。
でも実際にそんなことができる人がいたら、それはきっと超人ですね。笑
第五話:銀の弾丸で
なんでわかりにくかったかといえば、別のストーリーも混ざってきてるから…ですね。はい。反省してます。
この章は、ユングというよりも「オメラスを歩み去る人々」というお話のオマージュです。
人の幸せは、いったいなんの上に成り立っているのか、そんな問いかけがなされるこのお話の概要はこうです。
あるところに、オメラスというまさしく理想郷と呼ぶにふさわしい国がありました。しかし、この国の豊かさや平和は、ある建物の地下に幽閉されている一人の子供の不幸の上に成り立っています。オメラスの人々は十代の半ばにこの事実を知らされ、必ず一度はこの子供を見に行かなければなりません。そしてこの事実に直面した時、誰もが苦しみます。自分たちがこうして幸せに暮らしていくために、犠牲になる者がいる。けれど両方を成り立たせることはできない。それではどうしたらいいのか、と。
この小説の中では、「その事実を知った上で、オメラスで生きていく人」「事実に耐えられず、オメラスを歩み去ってしまう人」が存在しますが、あなたならどうしますか。
…とまぁ、こういう話がありまして。
これのオマージュを、監督生に当てはめてみたお話が、この章です。
ツイステッドワンダーランドに飛ばされてきた監督生は、一見すると、それでもグリムとともに懸命に生きて、周りのみんなをオーバーブロットから救っているように見えますけど、実際のところどうなんだろうなと。二次創作にも色々な結末がありますが、基本的には「帰りたい」と願うか、「この世界に留まりたい」と願うかの2パターンになるのかなと思います。
何れにしても、その結末にたどり着くまでには、自分の中の「欲望」や「本心」「想い」などなどをある程度抑えつけて生きていく…生きていかなければならない監督生は、いますよね。人の幸福のために自分をないがしろにする人って多いと思うんですけど、少しくらい自分の欲を優先してもいいんじゃないでしょうか!?みたいな気持ちを込めて書いてみました。
で、結果として全てを思い出した監督生は、アズール先輩とイチャコラします。ちょっとくらい自分を優先したところで、案外世界は変わらないと、そういうことです(?)
蛇足ではありますが、最後の「石化」というのは、元型論のグレートファザーのイメージから取っています。
グレートファザーは老賢者とも呼ばれ、超自然的な力を備えるもののシンボルになっていますが、このシンボルは権威ある人物の象徴なので、これ=自分だとすることは危険とされています。
考えてみれば、自分のことを「力を持つもの」と思い込んでる人とはあんまり付き合いたくないですもんね。
最終的には?
だからこそ、人はずっと考えて、迷いながら、それでも生きていくことになるんでしょう。
自分を知るきっかけというのはそこここに転がっていますけど、結構な割合で見ないフリや、臭いものに蓋をしているものじゃないかなと思います。というよりも、そうしなければ鬱ですよね。嫌なとこばっかり見ていても辛いので。ただ、それも自分だってことを忘れないで。
楽しいことばかり、嬉しいことばかりの人生は、おそらくないと思いますけれど、それでも、自分が心地よい場所を可能な限り追求して、それで、少しだけ自分を掘り下げて、もっと心地よい場所に移っていく。
そんな人生で、いいんじゃないかな、と。夢見がちな私は、思ってます。
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